教員の仕事は個人プレイ的なのか、それともチームプレイ的なのか?
教室内では、同僚はいないわけで、教師一人でクラスマネジメントしている錯覚に陥ってしまう。
自分ひとりの力で、学生を教育している気になってしまう。
少なくとも私は強くその傾向にあると思う。
このように思い込んでしまうのは危険な兆候であると思う。
自分はしっかり仕事できているけど、同僚はやっていない、という思い込みに通じるからだ。
私もここで数年働き、自分の教育の成果については考えてはいたが、同僚の成果については完全に無頓着であった。学校という組織の中で働いてはいるが、完全に自分ひとりの世界に入ってしまっている。しかし、私一人の力でクラスルームを統率しているわけではないことに最近気づいてきた。
まず学校全体の規則がある。学校の規則に反する行為に対しては私は規則をもとに生徒を罰することが可能である。もし学校の規則がしっかりしていなければ、そういった実力行使が難しくなるだろう。
他の教員による教え(教科のそれではなく、授業の受け方、道徳、態度の躾けなど)、同僚の陰からの援護、といった見えない影響。 例えば私が授業中に私語を禁止にしたいとする。
このとき、自分にそれを徹底する力量がなかったとしても、他の先生の授業でそれが躾けられていれば、この禁止令は容易に敷くことが可能であろう。また、同僚が私のいないところで私に好意的な発言を学生に吹き込んでいれば、その分だけ私の指示や助言は彼らに好意的に受け止められやすくなる。逆に周りから私に否定的な言葉が吹き込まれていれば、その分私の言葉は学生に受け入れられにくくなっていることだろう。
思えば私は随分と組織や同僚から援護されているのだなぁと思う。
逆に私は中立的な発言しかしないようにしているものの、うっかりマイナスな発言をしていることもある気がする。そして同僚をサポートするような発言は殆どしていない。
そこにはチームプレイの精神は無いのだ。学校全体の教育レベルを高めるにはその精神が望まれるのは当然といえば当然だが、浅慮なる個人プレー大好きな私には中々の難題だ。
まずは、機会があるごとに同僚の仕事ぶりを評価するポジティブな発言をして、彼らの仕事環境を改善しようと思う。
そうね。私も反省しなくちゃ。
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