Tuesday, December 18, 2012

私達は”I"の存在を認めている・・・。

私はこの世に存在しているのか?
今日の授業中、虚数iの意義について尋ねられた。
よくある質問なのだけれど、
私達の存在性自体虚数そのものなのではないか、なんて思った。
私はこの世に本当に存在しているのか???
実際怪しい。勝手に自分を存在する者として認識しているが、単にそう思い込んでいるだけかも。
ま、存在しているものとして扱った方が何かと話がわかりやすい。
So here i am.



Monday, December 17, 2012

藤原佐為がみつけたもの

漫画”ヒカルの碁”に登場する藤原佐為は平安時代の天才棋士。
彼の碁を極められなかった無念が、現代の少年ヒカルに憑依するところから物語が始まる。
佐為は囲碁に自分の全てを賭けていて、自分の囲碁を完成させる
(作中では”神の一手”と表現されている)ために往生できなかったのだ。
佐為は初めの頃は結構自分勝手で、彼は自分が囲碁ができれば幸せのようであった。
佐為はヒカルの思念に話しかけることができるようだが、自分の肉体が無く、ヒカルの肉体を強制的に操れるわけではなかった。しかし彼の影響力は大きく、ヒカルが棋士の道を進むようになったのは間違いなく佐為の存在によるものである。佐為はヒカルに碁を指導しはじめる。しかりヒカルの為ではない。佐為は現代のトップ棋士塔矢行洋と戦う機会を作る為に、長い月日をかけてヒカルをいっぱしの棋士をさせるという狙いを秘めていた。
物語中盤、ついに佐為は塔矢との対局を実現することに成功。
彼はそこで、自分の碁に”神の一手”の手応えを掴んでいた。
しかし直後のヒカルとの会話で、彼は自分の存在意義を知ってしまった。
神の一手を極めることが彼の存在意義ではなかったのだ。
”塔矢との一戦を後進のヒカルに見せるため”、自分のもつ囲碁の知恵・技をヒカルに伝授するためだったのだと!
その後ほどなくして彼の魂は無事往生する。

今、私は囲碁のかわりに数学を教えている。
でも生徒の為というよりは、自分の指導法の模索そのものに興味が向かっているよう感じる。
私は佐為のように無事往生できたらどれだけ至福なことだろう。
しかし、彼と同様に何年も自分の没頭するものに取り組んでようやく悟れるものなのかもしれない。



Sunday, December 16, 2012

直前に再確認を取ること!

土曜日にあったパーティの為に前日に同僚から借りておく必要のあったものがふたつあった。
Pさんから道具sを、Qさんから道具tを借りたいことを口頭で伝えて、その場でOkサインを貰った。
そして金曜日にはPさんから念のために道具sを借りたいことを伝えたら、そのことを忘れていたようで、急いで準備してくれた。これは電子機器で事前に充電しておく手間がかかるし、パーティー当日には受け取る機会がなかったわけで、確認しておいて事なきを得た。

Qさんからの借りるものは、事前に金曜日にある場所に置いてもらうように話が進んだのだが、金曜日に確認をすることを私は怠ってしまった。そして、土曜日になってその場所にtがおいてないことに気づいて慌てて折角の週末なのにQさんに電話をした。電話でQさんからtを保管してあった部屋から外に出してもよいという許可を得て、まぁ借りることはできた。Qさんは金曜日にtを出しておくことを忘れていたことを電話で謝ってくれたが、実際は借りる側の私の不手際の方が問題なのだ。

次回からは一度話しをつけても、双方”ミスをしてしまった”、という罪悪感を感じさせないように直前に再確認をするよう心がけることにする。

”どうでもいいじゃん、理由なんかねぇよ。”

今年の成果を挙げるとすれば、以前より自分の将来について思うようになったこと。
でも、今自分はどんな仕事をしたいのか、またするべきなのかが見えない。
学校の先生はやりがいのある仕事だとは思う。だけど、教育の成果が見えない厳しさがある。
知識を叩き込むだけなら学力テストや有名校進学率(率よりは数で誤魔化すべきか)で測ることができる点で塾の仕事は単純だ。
人間性の涵養?その測定不能のものに一生、懸命に取り組むことはできるのか?
またそれは己の一生を捧げるに値する仕事なのか?

こんな非生産的な迷いごとに悩み続けて一生を終えるシナリオは避けたい。
あぁ、人は一体何の為に生きているのだろうか?
数年前に私が思索の末にみつけだした答えに今の私は満足できていない。








Tuesday, December 4, 2012

象牙の塔の住人

私は別に何かを研究しているわけじゃないけど、
私は現実世界を直視していないと感じる。
漠然とだけど理想とする世界や生き方があり、現実世界を知れば知るほど幻滅する。
正直、現実世界の醜い部分は見たくない。

私が観ている世界はいつも私の精神だけだった。
私の考えること、心の動きにしか興味がなかったように思える。
私が取り組んだことのある問題は学校で出される問題(数学の問題)だけで、社会が直面している問題には一切関心をもっていないのだ。
自分の世界に閉じこもっているのだ。それは今でもさして変わっていないよう感じる。
変わりたいという欲求を自分の中に感じ取ってはいるんだけどねぇぇ。



Monday, December 3, 2012

増減凹凸表!

今の職場で微分積分を教えるのは今年で3年目になる。

現在、第一次導関数と第二次導関数を利用して、関数のグラフを描く問題を説明するところ。

去年までは全く気にならなかったのだが、今年気になった点がひとつある。
それは、fの増減とf’の符号をまとめた表のことは”増減表”というのだが、
f’’まで含めた表には特に名称がないことだ。

私の手元にある教科書には見当たらない。
アメリカの教科書を調べても特に名前を与えていない。Sign Table, the tableくらいだ。
表の書き方は教科書によって微妙に異なる。縦と横が逆だったり、f、f’、f’’の順番が違ったりする。それは構わないのだが、表に名前がないは不便だと感じたので勝手に命名することにした。

f’の符号とfの増減の表は教科書どおり”増減表”
f’’の符号とfの凹凸の表は”凹凸表”

そしてf’’、f’の符号をまとめた票は、”増減凹凸表”

何のひねりも無い。
でも解りやすいことが一番大切。
そう思ったので、ここでは私の優れたネーミングセンスを披露しないだけさ。







Sunday, December 2, 2012

解はひとつとは限らないのが世の常よ

恩田陸の”ユージニア”を読んだ。
ミステリー物である。
数十年前に起きた毒殺事件を、色々な人物の観点から振り返ってみる感じで話が進む形式。
事件の真相が気になってしまい熱中して読んだ。
徐々に、事件の真相が明かされていくのだが、最後の最後まで犯人だ誰々であるという確証もなく、真実が不明のままで終わった。

名探偵江戸川コナン君ならば、”真実はいつもひとつ!”とか言って真相を解明してくれ、読者にカタルシスに導いてくれるところだが、恩田さんはそうしてくれなかった。

しかし確かに実際の事件には真相が明かされぬまま闇に葬られるケースは数多あるだろう。
第一、人間の知覚、認識力には限りがあるわけで、与えられた現状(データ)から過去の状態を100%再現できないはずだ。実際科学ではニュートンの運動方程式などの武器があっても、データには誤差はつきもの。また我々が認識していない隠れた要素もあるかもしれない。カオス的な要素がなくても、過去を100%は再現できているわけでない。Aの状態であった可能性~%、Bの状態であった可能性~%といった具合に表現するしかない。

読書中の私は毒殺事件の方程式の解が一つだけ存在し最後には求まると思って読んでいた。
しかし、著者の用意した解答は解は存在するだろうが、解の値を特定できない、であった。
真実は一つとは限らない、ということか。
数学で方程式の解が一つと決め付けている学生達は江戸川コナン君の傲慢な思い上がりに毒されているのかもしれない。ミステリーに疎い私がこの事件の絶対の解が一つだけあると思い込んでいたように。






Saturday, December 1, 2012

今月こそは!

11月も目標のブログ更新10回を達成できず。

目標が高すぎるとは思えない分、2ヶ月連続で目標に届かないと自分の能力に疑問を抱かざるを得ない。
11月は何がダメだったのだろう。

まず自宅でインターネットが使えなくなった時期が2週間ほどあったこと。
次に11月中旬は仕事に忙殺されていて、疲労が溜まっていたこと。
実際にこの時期に体調も崩した。

ブログに書く内容がパッと出てこないのは、じっくり考える時間を設けることに失敗しているからだ。
学校に居残っていると、他人との会話や雑務が優先され、私は思考停止状態になっている感がある。


12月は冬休み中、旅行する予定でインターネットは使わないだろう。
となると、20日までに2日に1度のペースでやらないと目標達成ができない。
自分の孤独な時間を作るよう努力するしかない。
第一に余計な残業時間を削ること。仕事後、帰宅して疲れ果てて頭が回らんことのないように。
第二に惰眠を減らすこと。頭がすっきりしている朝の時間をもう少し増やしたい。
第三に散歩時間を作る。散歩中は思考整理ができている気がするからだ。

今月は本気で取り組みたい。

Sunday, November 25, 2012

うまく気づかれずに押し付けられないか?

最近、私は生徒さん達と接する時の謙虚さを失い、要求を押し付ける横暴さが目立つようになった気する。

自分の考えが正しいと思い込むようになったのが一因だろう。
教員としての経験を積むにつれて、自分の指導方針に自信を持つようになってしまったわけだ。
それは悪くはない、むしろそうでないと困る。
だが、それでも押し付けは私の理想とするレッスン形態ではなかったはずだ。
生徒に何々するように促したくても、言葉で押し付けるだけでは能なしといわれても仕方ない。
言葉で押し付けなくても、授業だけで自然と生徒を理想的な学習をするように仕向けられるようにもっと授業を工夫しようと思う。

今年の大きな目標は、予習復習を継続する学習習慣の定着化である。
具体的な対策は特に定まっていないが、とりあえず一年通して、予習復習の大切さを訴え続けてゆこうとしている。授業開始時、宿題や試験返却時、授業中のちょっと息抜きの時間、授業外、とか。これをどうやって押し付けと思われずに伝えるかが手腕の見せ所だ。筋肉なさ過ぎてたいしたもの見せられないけど、色々と試行錯誤していくしかない。


Saturday, November 24, 2012

ペットボトルの話

水の世界地図(第2版)刻々と変化する水と世界の問題を読んでいます。

これによると水の瓶詰めと梱包による環境損失は甚大であるらしい。
天然水(?)から数千マイルを運搬したり、ペットボトルの生産に必要な石油(燃料)の量は相当のものらしい。飲んでみて水道水と区別できないのに、瓶詰め水に水道水の1000倍のお金を払い、そのために余計に燃料が消費されるのは可笑しい、と言いたいようだ。

ちなみにこの瓶詰め水のセクションを読む前日に私はスーパーで7種類の瓶詰め水を購入したばかりだ。Poland Spring, Avian, Volvic, Fijiなど色々と買ってみた。ソムリエ気取って味比べをしようかと思って買いましたが、水道水とも比較しないといけないなぁ。

ところで、ペットボトルに関して、下のページから”しってほしいペットボトルのこと”を視聴しました。面白かったのは、使い終わったペットボトルの回収率(2010年)がアメリカ29%でヨーロッパ48%、日本が72%というところ。アメリカとてつもなく低いなぁ。しかし、視聴していて日本ではアメリカよりはるかに厳しいゴミやリサイクル品の分別規則があったのを思い出した。日本で滞在していたとき、各家でリサイクル品を細かく分別していたのに驚いたものだ。比べてアメリカでは数年前の日本よりいまだに大雑把な分別しかされていない。アメリカ人のリサイクル意識は大分低いのだろうか。それにしても”水の世界地図”ではアメリカのペットボトル再利用率が20%となっていた。これは2010年より前のデータだろうけど、日本との差が悲しい。

さて、7本分の健康に良い(?)水をじっくり堪能するか。

http://www.petbottle-rec.gr.jp/

Friday, November 23, 2012

体調崩す。

二週間ほど前の話だが、風邪を引いてしまった。

風邪なのだろうか、今までにあまり経験したことのない症状だった。

咽喉が渇くのだ。渇きを感じ出すと咳がでた。
数日すると、声が出せなくなった。
しかし、咽喉以外には何の異常もなかった。
頭痛はしない。鼻水も出ない。体温も平常。
だから本当に風邪なのかわからなかった。

一応風邪薬を飲んでみたけど、咽喉は良くならなかった。
仕方ないので、学校の保健室で診てもらった。
咽喉が腫れていたくらいで、他に特に悪いものは見つからず一安心。
保健室でもらった薬で咽喉の痛みや渇きを緩和。

声が全く出せなかった日が5日ほど、当初思っていたより回復が遅れたが治ったようで良かった。

体調管理が疎かだったのを反省するか。
あのころは、期末試験やその他の仕事が重なり、夜更かしすることが多かった。
意識していなかったが、疲れが睡眠でとりきれず蓄積してしまったような気もする。

イチロー選手が実践しているような規則正しい毎日を送るよう日々の時間の使い方をもっと真剣に考えなければなるまい。

Thursday, November 22, 2012

目の前の相手を優先するべきなのか?

エネルギー問題や環境汚染問題について考えたことはありますか?
こんなシチュエーションを考えてみてください。

今からある会社の採用試験の面接を受けに行きます。
車でテクテク運転して行きます。
今日はなんとなくじめじめした暑い日です。冷房がなくても堪えられますが、汗まみれの状態になることは避けられそうにありません。

こんな時、運転中は冷房をがんがん効かせますか?



私なら効かせます。面接官に対してできるだけ爽やかな印象を与えるため。
私がここで冷房を使う使わないによる、大気への影響やエネルギー消費量は微々たるものだと考えてしまう。たぶん、大多数の先進国民はそういう結論を出すと思う。
環境汚染問題、エネルギー問題、温暖化問題などがあちこちを賑やかにさせていますが、結局みんな自分の利便性は犠牲にしたくないし、自分の身近のことを優先してしまうのだ。第一これらの問題による悪影響はすぐには見えないし、大きさも不明だ。文明がどれだけ進化したところで、人間は目前に迫る物事にしか対応できない。偏見ですかねぇ?

Monday, November 5, 2012

地政学に触れる

最初は国名や国々の位置関係とかをしっかり憶えようという軽い気持ちで勉強し出した地理であるが、このところ興味は地政学にシフトしてきた。

特に地政学の考え方は、今まで政治に全く興味が無く、各国の政治的発言や行動の意図をどうやって読み取るのか全く判断できなかった私に、考えるべき要点などを与えてくれた。
おかげで、少しは新聞の政治面の記事を読む気になってきた。
ただ読むだけでなく、自分なりに解釈できるようになると頭に残りやすいから益々学習意欲が湧いてくる。

地政学からさらに軍事についても少し知識を身につけたいと思うようになり、
軍事関連の簡単そうな本を数冊購入して読み始めた。
まだ基礎知識を頭に叩き込む段階であまり面白くない。
むしろ、地理歴史と同じで、何で今まで何も知らずに済ませてきたのか!?
よく知らずに社会人やっているなぁ、と思わされた。
でも、ある程度基礎知識が定着してきたら地政学同様、面白くなってくると思い、とりあえず読書を続けたい。

以下、私が地政学に興味を持つに至った本を4冊紹介します。
最初の3冊はライブラリーで借りたものです。ライブラリーはお金が懸からずに色々な本を読めるのでありがたい。しかし学校のライブラリーにはあまり新しい本がないところが残念だ。

1.地政学という学問があることを知るきっかけとなった一冊。

地図で読む世界情勢 第1部 なぜ現在の世界はこうなったか 
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794216092/ref=s9_simh_gw_p14_d0_i1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-5&pf_rd_r=0CN0GXPP2ZHSHMM5YKM2&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376716&pf_rd_i=489986

2.ライブラリーで借りて読み始めたが、私にはやや難解でつまらなく、途中で放り出した。

地政学入門―外交戦略の政治学
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121007212/ref=s9_simh_gw_p14_d0_i4?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-6&pf_rd_r=0CN0GXPP2ZHSHMM5YKM2&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376816&pf_rd_i=489986

3.具体的な例から地政学的な物の見方を示され、なんとなく地政学の意味が解った気になった。

新・悪の論理
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0-%E6%82%AA%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E2%80%95%E5%A4%89%E8%BB%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%B6%85%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF-%E5%A4%A7%E6%89%8B%E7%94%BA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%80%89%E5%89%8D-%E7%9B%9B%E9%80%9A/dp/4819107232/ref=sr_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1352065767&sr=1-5

4.これは初めて自費で購入して読んだ、地政学関連の書物。非常に読みやすかった。
読んでいて、以前より政治に関心をわきたてさせられた。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894519178/ref=s9_simh_gw_p14_d0_i1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-6&pf_rd_r=0CN0GXPP2ZHSHMM5YKM2&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376816&pf_rd_i=489986

Sunday, November 4, 2012

ドかべん

家の壁はさっぱりしている。
飾りといえるものは殆どなく、カレンダーと週間予定表と連絡網が張ってあるだけである。
壁をふさぐような大きな家具もあまり置いていないので、殺風景ともいえる。

先月、弟からコンピュータのWall Paperに学習したい内容を貼ると、それを頻繁に見るから頭に入りやすい。という助言を貰った。

しかし、それを現実の壁にも使うのもいいかもしれないと思った。
英単語をノートにせっせと書いても、ノートを開かなければ復習しないが、
壁に書いておけば、頻繁に復習できるのではないか。
そう思って、先週から実行しだした。
名づけて、どかべん。(ドアと壁で勉強するから)
自分の字が汚かったり、小さすぎたりして、近くまでいかないと読めないなんてことになったので、
少し大きく文字を書いたり、一見して復習できるように図や絵も用いることにした。
はてさて、どれほどの効果がでるであろうか。


ところで、これを実行しだすとき、どの映画かは定かではないが、壁に新聞の切り抜きを貼りまくっているスパイの一部屋のシーンを思い出した。壁を埋め尽くすほど貼り付けることになったら異様かもしれない。

Sunday, October 21, 2012

メニューに目を通したが、食指動かず。

今日は部屋の前におかれていた飲食店のテイクアウト用のメニューから英単語の勉強をした。


Sauerkraut ー>ホットドッグでソーセージと一緒にパンに挟まれて出てくるあれのこと。
今まで何度も食べてきたけど、その名称を今日まで知らなかったし気にもならなかった。

Italian Wedding Soup 、そういう名称のスープ。べジと肉が入っているらしい。食したことあるかな?

Mozzarella ->イタリアンチーズの一種らしい。

Foodborne Illness = Food Poisoning =食中毒

Iceberg Lettuce レタスの一種、アメリカで最も普及しているタイプらしい。
Romaine Lettuce レタスの一種、写真をみると確かにIcebergとは別種だなぁ。

croutons シーザーサラダに入っているサイコロ型のパンのことか!クルトン。


ハムやチーズの種類が沢山あったが、これは憶えられん。食べ比べないとわからないと思う。


Lb、幾つかは量をLbで表記してあるのだが、1Lbがどのくらいの量なのかピンとこない。
1Lb=0.45キロ=450グラムだけど、サラダが1/2 Lbってどのくらいだ??


思ったより、学習することが多くて恥ずかしいくらいだ。
しかし一番印象に残ったのは、Buffalo Wingsの価格だろう。
6個    4.95ドル
12個 7.95ドル
18個 10.95ドル
24個 15.95ドル??

6,12,18個のところは、沢山注文した方が一個あたりの値段が安くなる。
しかし、24個のやつはそうなっていない。12個を2つ注文した方が5セント安くあがる。
13.95ドルの間違いではないか???それともメニューにはない特典でもあるのだろうか?
どちらにせよ、まとめ買いしても安くなるとは限らない、という非常識な売り方がアメリカでは結構ある気がする。

Friday, October 19, 2012

統計の授業の準備がシンドイ

私の希望が叶って、今年のカリキュラムに統計のコースが導入された。
今まで統計を教えた経験がないので、やってみたいと思っていたので喜ばしいことだ。
私が学生時代に初めて受けた統計の授業を参考にして教科書に忠実に進めて行くつもりだった。
しかしこの統計のコースは毎週1回45分のコースとなった。
私の構想は週3,4回の授業だったので、非常に困った。

週1回の授業では、年間通しての授業回数は非常に限られ、一般的な統計のクラスで教えられる内容は到底カバーしきれない。
週1回しかないので、当初の構想を捨てた。統計の理論や計算はできるだけ省き、統計が如何に普遍的に応用されているかを理解してもらうことを主眼とした。

その結果、私は週1回の授業の準備に苦しむことになった。
教科書ベースに進めるなら、そこにある例や用語解説、数値算出方法などを説明することになり、教科書をよく復習すればそれなりの準備が可能だったろう。
しかし、統計の応用例を実際に探すとなると大分事情が異なってくる。

まず授業で生徒に興味を示してもらえる例が何かを考慮する必要がある。
昨日はボードゲーム"モノポリー”を取り上げたが失敗であった。
何人かはゲームを知っていたので興味を示してくれたが、他の何人かはゲーム自体を知らなかったので、授業に全くのってこなかったのだ。

また私が実社会のことに疎いという問題も顕かになってきた。
そもそも私が統計の応用例について興味を持ったことがあまりなく、教科書上の理論に満足していた感がある。だから私の頭には具体的な統計活用例の蓄積が殆どなく、応用される分野のバラエティに欠く。これが授業準備を難しいものにさせている。

そして週に一度しかないので、下手な授業をしてはいけないというプレッシャーが
毎日ある授業より強い。毎日あるクラスならば、ある程度の脱線やミスも挽回可能であるが、
週に一回だと、挽回は無理だ。

まぁ色々と書いてみたが要は私にはこのコースを講義するに十分な素地が出来ていないのだ。
己の力量不足を痛感させられる一年となりそうだ。

Wednesday, October 10, 2012

諸刃の言

大器晩成の士、と評価されたい。

その為には、高き志を持ち、死ぬまで精進し続ける。

私は祖父に”我、大器晩成す”と豪語しており、その口約束は守りたい。

言葉には呪力があるというのはあながち世迷言でもあるまい。
実際、私は自分で発した言葉で、自分自身の行動が制約されたり、逆に行動する気になったりするからだ。
恐るべきは、人に語った己の言葉なり。
上手く使いこなしたい。

Tuesday, October 9, 2012

自分ひとりの力によるものではなかった。

教員の仕事は個人プレイ的なのか、それともチームプレイ的なのか?
教室内では、同僚はいないわけで、教師一人でクラスマネジメントしている錯覚に陥ってしまう。
自分ひとりの力で、学生を教育している気になってしまう。
少なくとも私は強くその傾向にあると思う。
このように思い込んでしまうのは危険な兆候であると思う。
自分はしっかり仕事できているけど、同僚はやっていない、という思い込みに通じるからだ。
私もここで数年働き、自分の教育の成果については考えてはいたが、同僚の成果については完全に無頓着であった。学校という組織の中で働いてはいるが、完全に自分ひとりの世界に入ってしまっている。しかし、私一人の力でクラスルームを統率しているわけではないことに最近気づいてきた。
まず学校全体の規則がある。学校の規則に反する行為に対しては私は規則をもとに生徒を罰することが可能である。もし学校の規則がしっかりしていなければ、そういった実力行使が難しくなるだろう。
他の教員による教え(教科のそれではなく、授業の受け方、道徳、態度の躾けなど)、同僚の陰からの援護、といった見えない影響。 例えば私が授業中に私語を禁止にしたいとする。
このとき、自分にそれを徹底する力量がなかったとしても、他の先生の授業でそれが躾けられていれば、この禁止令は容易に敷くことが可能であろう。また、同僚が私のいないところで私に好意的な発言を学生に吹き込んでいれば、その分だけ私の指示や助言は彼らに好意的に受け止められやすくなる。逆に周りから私に否定的な言葉が吹き込まれていれば、その分私の言葉は学生に受け入れられにくくなっていることだろう。

思えば私は随分と組織や同僚から援護されているのだなぁと思う。
逆に私は中立的な発言しかしないようにしているものの、うっかりマイナスな発言をしていることもある気がする。そして同僚をサポートするような発言は殆どしていない。
そこにはチームプレイの精神は無いのだ。学校全体の教育レベルを高めるにはその精神が望まれるのは当然といえば当然だが、浅慮なる個人プレー大好きな私には中々の難題だ。
まずは、機会があるごとに同僚の仕事ぶりを評価するポジティブな発言をして、彼らの仕事環境を改善しようと思う。




Monday, October 8, 2012

なかなか着火しない。

土曜日に高校生のサッカーの試合を観戦した。
サッカーの試合の一部始終を観戦するのは、生まれて2度目である。
1度目は2週間前のこと。
そこでの我が校のプレイに好感を憶えたのだろう。
それが今回の観戦に繋がった。
今回の相手は、聞くところによると我が校は20年間全く勝利したことがない強敵らしい。
この日は序盤から激しい攻防戦で、前半は0-0で終了した。
後半は我が校は敵の攻撃を防ぎきれず結局4-1で敗れたが、試合終了まで熱中してみることが出来た。
後半始まって早々最初の失点をしてから、徐々に点差をつけられて残り10分ほどの段階で4-0になっていた。それでも最後までギブアップせずに執拗に相手のゴールを攻めて、残り数分でついにキャプテンのシュートが決まった。今までの相手キーパーの鉄壁ぶりを思えば、よく決めてくれた!って大いに溜飲を下げることができた。
4点差になっても最後まで闘争心を無くさず、執拗に攻める姿勢には驚嘆する。
私なら、間違いなく途中で試合を諦めていただろう。
もし我が校のキャプテンがそうしていたら、私を含めた観客は最後まで観戦や応援はしなかっただろう。
彼らの奮闘は私達を魅了した。
前半の接戦も素晴らしかったが終盤に見せた意地と勝利への執念はそれ以上に素晴らしかった。
終盤のキャプテンの意地を観る為に私はこの試合に足を運んだのだろう。
私も彼のもつ闘争心、根性、粘り強さ、熱気、といった特性を少しでも備えたい。
彼のように真剣に己と向き合っていれば、獲得できるはずだが・・・
可笑しいね、火を使えてこその人間だというのに。

Tuesday, September 25, 2012

一期一会

何年も前に”美味しんぼ”を読んでいて覚えた言葉で、結構気に入っている。
しかし、このところ心の片隅にも無かったようだ。
安岡正篤氏の”活眼 活学”を読むすすめていると"一期一会”に再会した。
うーむ、最近この心得を疎かにしていたなぁ。反省しよう。
言葉だけ知っていても、それが己の一部となっていなければ知識とは言えないのだ。

Monday, September 24, 2012

自国のことを知るように努めるべし

尖閣諸島問題に関して
自分で考えてみたいけど、残念なことに政治と歴史の知識が極端に欠乏している今の私には論理的なことはなにも言えない、と思う。恥ずかしいことだ。

ただ反日デモのニュースから、中国の住民はあまり幸せな状態ではない上、日本に対して前々から反感を感じていたのだろうと思った。
戦争もあったし、その後の隣国の経済発展は憎むべき対象だったのかもしれない。
たとえば、私の弟が突然、私の10倍の年収を受け取るような職に就いたら私の内心穏やかではなくなる・・・と思う。そうならないよう人格形成に努めねば!
経済面では日本人経営者達は中国の労働力をこきつかっていたのだろうか。
皆がそうとは限らないが、多数がそうしていたら、内に潜む反日感情も相当なものだろう。
結局、日本も中国も自分を最優先に考えるわけで、現代人も賢いとは思えん。

ところで、私は日本では中3途中までしか勉強していない。
インターネットの発達した現在ならそれくらいの勉強をする気になればできたろう。
大学院生のとき、友人の韓国人と中国人と私の3人で3国間の歴史と現在の政治の話をすることになったが、私は無知だったのでその話題中終始ダンマリ状態になってしまった。
自国について無知であることは国際人として失格だと、そのとき思わされた。
あれから何年も経っているが、まだ私は国際人になれていない。少しずつ頑張るしかない。

Sunday, September 23, 2012

工夫で自己満足中

効率よく学習しようと思い立つと、自然と勉強の仕方や日々の生活を工夫しようとするようになるみたいだ。

最近の工夫:
1.デスクワークで疲れた時に休憩代わりにつまらぬ掃除や洗濯をする。
また、その最中に学習したものの確認を頭の中でやってみる。

2.難解な書物を寝る前に開く。結構すぐに寝付ける。

3.入力と出力のバランスを意識する。読書や動画視聴を続けて入力過多と感じたら、ブログや会話などで発信するようにする。


実は過去に何冊も自己啓発書といわれる書物を読んできたけど、殆ど自分の身につかなかった。
他人の忙しい生活の中から生み出されてきた素晴らしいアイデアも、暇な時間をもてあます私にはピーンとこなかったのだろう。自分から時間の使い方を意識するようになり、自分で工夫するようになって、やっと以前読み知った内容の真意に気づく。
それにしても、工夫すること自体なかなか楽しい。生活スタイルを改造しまくって変人になるか!

Tuesday, September 18, 2012

何の為の教育か?

高校で数学を教えることが現在の私の職分である。教育関係者である。
教育は誰の為にあるのだろう?

個人と為なのか?

個人が特定の大学や企業に入れるようにすることが仕事なのだろうか?
もう少し長期的にみて、その個人が順風満帆な人生を送るために必要なことを教えることか?

それとも日本国の為なのか?

国家の繁栄を担う人材の育成が教育の主眼なのだろうか?
戦前、戦時はそういうことが主眼だったのではないかと思う。
文部省からの視点では今でも教育をそう捉えていることだろう。
現場の教員達はそう捉えているとは限らないが。

いや、もっと大きく世界の為の教育なのか?

そうかもしれない。国際化がどんどん進む今、世界の為の人材が不可欠になってきているようだ。
自分の為とか、会社の為とか、自国の為、といった狭い視点でものを考えるのは結局争いばかりの現状を改善する手助けにはならないだろう。


うーむ、そうだとすると私は教育者としては力量不足だろうなぁ。
残念ながら、世界の為の教育という捉え方がもっともしっくりくるのだ。困ったものだ。
まず、私自身が世界の為という視点でものを観るようにならないと、学生達に何も伝授できないな。
ということで、今日も世界史と世界地理の学習を続けよう。

Monday, September 17, 2012

人類の繁栄に貢献しようかなぁ

時々、というより心の奥底では”世の中どうなっても知らんわ”、と思いがちらつくことがある。
宇宙の広大さに思い馳せれば、人類なんて・・・と思ってしまうわけである。
自分の人類への貢献度の少なさから、向きになって反抗する幼い精神に因るところも大きいかな。

人類はいずれは滅亡する。それがいつの事になるかはさっぱり見当もつかない。
自分の寿命を知りえないのと同じだ。
あと何千年も存続するかもしれないし、残り数世紀かもしれないし、残り数年かもしれない。
極端な気候変化、核戦争発動、異星人による地球侵略、伝染力の強力な致死率の高い未知の病の発生、新技術の眼に見えない人体への悪影響、など未来に何が起こるかなど知識の乏しい私にはわからないことだらけである。

ま、いずれ滅びるのは間違いないだろう。
人類が永遠に栄えると思うのは、自分だけはどんな状況でも死なないと思うのと同じだ。
そう思うと、人類が今滅びることになってもしっかり受け止めることができる・・・気がする。
それで世の中の全ての出来事に対して諦観的になってしまうわけだ。

生物は生きる為に活動している。
人も生物なのだから、できるだけ生存できるよう努力しなければならないな。
また、人はひとりでは生きてゆけない。
だから周囲の人との共存を念頭において行動することになる。
自分の行動基準は自分の見える範囲で決まる。
幅広く物事を知るよう努め、できるだけ多くの人の生存に貢献できるような活動ができたら、冒頭のような葛藤もなくなるかもしれない。

諦観しつつも、無駄な努力(いずれ滅びる人類の繁栄に!)をするという矛盾もまた一興。





Sunday, September 16, 2012

好影響と悪影響は同時に発生するもの

毎日、世界中で色々な事が起こっている。
それによって、喜ぶ人や悲しむ人、利を上がる人と損害を被る人が出てくる。
よい行いと悪い行いとは一体どうやって区別できるのか?
自分の勤める企業に貢献し、売り上げが上がればその企業にとっては一時的にはプラス。
でも、それによって競合起業が倒産したり人員削減が起こり、失職する人にとってはマイナス。
それで治安が悪化することになれば、国全体にとってもマイナス。
しかし、その国より優位に立とうとする他国にとってはプラスになったり。
善悪の判断は難しいものだ。まぁ、不可能だろう。
だからいくら理屈を並べたところで人は自分が最も利する行動を取るのではないか?

それが全体を良いものにする、というのが資本主義の理屈だ。
これの正誤の判断は、その恩恵を受けている人々には無理だろう。
この思想はあと何十年生き残れるのか、次世代の思想の登場まだ生き残りたいものだ。

Tuesday, September 11, 2012

長寿志向

現在の日本の平均寿命は80以上らしいが、今のところ私が80歳で生きている姿を想像できない。
そこまで長く生きる甲斐はあるのか?甚だ疑問である。
しかし、長生きするつもりなら、現在の日々の生活習慣をしっかり見直さなければなるまい。
霜降しても、故障のない健康体でいるには、それなりの準備が必要だろう。
食習慣、運動、五感と脳の活用、これらを今のうちから意識して改善したり鍛えることで天命を存分に全うできるのだろう。逆にこれらを疎かにしていたら、苦痛だらけの後半生となろうことは予想できる。やはり想像はしたくない。
健康な老後への投資は、効果がなかなか見えない。しかし効果は確実にあるだろう。
ここにしっかり投資する人は先見の明をもっていると思ってよいだろう。
凡人は即効性を有りがたがるもの。
いや、私も健康への投資は大事だと思いますがね、行動が伴わないんですねぇ。
わかっているけど、やらない。
学生さん達に何度か伝えた言葉だが、自分にとっても耳が痛い。



Monday, September 10, 2012

あるバイトの影響

私の学校外での最初のバイトはレストランでの給仕。
学校では自分の殻に篭り勝ちの私にとって、異世界に飛び込んだような貴重な経験になりました。

まず自分の身だしなみに気を使うようになった。それまでは人から見られているという意識は絶無でした。今でもあまり気は使っていませんが0ではなくなりました。

それから挨拶や返事でしっかり声を出すように躾けられたこと。
この辺が一番自信がなかったので、ここでそういう体験をできたのは大きい。学生の間はその必要性に迫られることはなかったからね。

またお客さんに出来るだけ喜んでもらえるよう接客の仕方を模索したことで、他人とのコミュニケーション、観察力、対応力、行動の早さ、など一言では言い表せないけど色々な能力を鍛えられたと思います。

最後に、そこでのボスに何度も言われて身についた言葉に
”空いた時間があったら、自分でできることを見つけて実行する”
があります。ボスから頂いた貴重な訓示、私の無形財産です。

でも貴重な訓示だと認識したのは、そこで働いていたときではなくて、今の職場で働いているときに何度かレストランで身につけた習慣に救われていることを実感したときです。
バイト経験していて良かったなぁ、と何度も感じています。


Sunday, September 9, 2012

寝る前の時間の使い方を改善したいが・・・。

一日の終わりにその日に成し遂げたこと、成し遂げられなかったこと、やろうとしてやらずにおわったもの、などを省みないとなんだか一日を無為に過ごしてしまったような気分になる。
しかし夜寝る直前は直ぐにベッドに入りたくなって、反省をせずにすませてしまうことが多い。
どうしよう。反省は一日の終わりではなくて、一日の間に何度かするようにしたらよいのだろうか?
なかなか、思うように反省の時間を作れていない。
そうだ、ブログを書く時間を削ればよいのだ!

Wednesday, September 5, 2012

専攻

知識、技術、習慣を自分のものにするには時間がかかる。
当たり前のことなのだけど、学習には時間が必要だ。
人間がサイボーグ化して、コンピュータ脳と連結する時代が到来したら、常識も崩れるか。
だが、それまで寝て待っているわけにもゆくまいな。
さてこれも現代の常識だが時間は有限、一日は24時間である。
学習したい物事が全て時間内に終わる人は殆どいないだろう。
となると、その時間を何の学習に注ぐか、という選択に迫られることになる。
専門的知識を身につけている人は選択余地の無かった人、もしくは数ある選択肢から最も学習したいことを選ぶ決断力があったのだと思う。

私は大学、大学院で数学を専攻していた。
私は選択余地の無い人でした。数学以外に選択肢を持っていなかった。
理由は簡単で、数学以外の科目にはあまり熱心に取り組んでこなかったことであろう。
専攻を決断する際も、他の分野を一切考慮することが無かった。怠惰とよべます。
おかげで、随分知識が数学偏重となり、他のことには無知蒙昧状態となりました。
悲しいことに数学で成績を取れているので、自分が何も知らない阿呆であることに気づくことがなかった。
いや、友人との雑談中に薄々気づいていたかもしれない。
一般常識、時事問題、観光、歴史、経済、スポーツ、全てにおいて聞きに徹せざるを得ないほど字発信する話題に欠けていた事は自覚していた。
それを重大な問題とは思っていなかったのがマズかったのかな。

最近は数学から離れつつあり、逆に、少しずつ他の物事に眼を向けて、他の分野に興味を持てるようになってきた感がある。果たして良い事なのかどうかは結論を出せない。
どんどん数学から乖離してゆく自身をよく思えない気持ちがあるのも確かだからだ。(これも見栄の仕業だろうか、本当に数学好きなら今の状況にはならないよなぁ?)
しかし好奇心が絶え間なく湧出するという今の感触は永らく味わったことの無い妙味。
暫くはこの快感に浸っていたい。




Sunday, September 2, 2012

音読

読書中にふと、音読をするよう努めだした今日この頃です。

私はShyなので気の置けない話し相手以外には小声でしか話さない傾向にあったように思う。
渡米直後は自分の英語に対する自信の欠如がそれに拍車をかけたようで、
私は怒りや反感を言葉に出すこともなくなり、大きくはっきりとした声で話すことが無くなった。

それと運動をしない悪習慣も関係していると思うのだが、
私が喋るとき、どうやら呼吸が止まっているようなのだ。
大きな声を出すには、大きなExhaleを伴うことを近年に体験から学んだ。
また、たまに深呼吸をすることで、普段の呼吸は”浅すぎでは?”という不安も抱くようになった。

ユダヤ人の勉強法”という本で"音読”の効力の力説にも触発され、
私も音読を実践してみようという気持ちが少しずつ出てきた。
とはいえ、音読の読み方では、膨大な量を読みこなすことは出来ない。
そこで、読書中に特に気に入ったセクションやフレーズ、あるいは短い記事(のそのまた一部)、を気が向いた時に気ままに音読するようになった。
音読でフレーズを暗記したいという思いもあるけど、発声練習や腹の運動や朝の目覚めという目的に音読をやっているつもりである。

近い将来、自分の美声に陶酔できたらいいなぁ、と夢想するのも中々気持ちいいものなのです。
呼吸の改善で健康にも良い影響を与える(確証はないですが)。
また、音読で記憶も増強できるなら(僅かな音読量では効果は怪しいが)、
一石三鳥のはず!



Saturday, September 1, 2012

己の力量を測るという挑戦

昨日初めてTOEFLのサンプルテストを受けてみて、自分の力量を測った。
自分の部屋においてあった一度も開いたことのないTOEFL対策の単語集を開いてみたのがきっかけだ。
サンプルテストは、その本に載っていた単語の問題を30問の簡易版、手軽にできた。
今まで自分のTOEFLスコアを測ることを避けてきたが、理由のひとつは必要性を感じなかったことである。
私はアメリカに長く滞在しているが、本格的に英語の勉強をしたことが無かった。
SATやGREも数学で稼げば十分だと思い込んでいて、SATなどででてくる馴染みない単語は学習する必要を感じなかった。でそのまま今に至ってしまった。
就職活動時になって英語を勉強しておけばよかったと初めて後悔した。
このときは自分の英語力が弱点になっていると感じた。
この自信の欠如がTOEFLなどを避けるもうひとつの原因、いや真の要因であろうと思う。
見栄を張りたがる傾向にある私にとって、”もし低い点をとってしまったら?”というシナリオは直視できぬものであった様に思う。
とはいえ、就職してしまってからはその後悔の念もどこかへ潜んでしまった。
幸い最近にわかに英語の語彙力強化に熱がはいり、夏の間に少し自信をつけた。
その自信がめでたく昨日の挑戦に結びついたのだ。

尚、ここでいう自信とは私の今の語彙力に対するものではなく、自分の成長に対するものなのだ。
自分の成長に確信を抱けたからこそ、現状を直視できるようになったのだと思う。


ところで、点数はどうだったかというと・・・ショックを受けるほどではなかったが予想以下の点数だった。
やはりこの程度なのか、というところ。
この秋も引き続き語彙増強に励むとしよう。

Wednesday, August 29, 2012

クロスワードパズル

英単語増強策の1つとして、クロスワードパズルに取り組んでみた。
主な理由として、
1.楽しめるだろう。
2.色々な分野、また時事問題にも触れることができるだろう。
3.俗語などのフレーズを学習できるだろう。

2週間ほどコツコツとやっていたが、止めてしまった。
あまりにも学習効率が悪かったからである。
これは私が英語のクロスワードパズルに取り組むには力不足だったことが主な原因であろうが、
ともかく一つ一つの設問に答えるのに、答えを見たりしながらやるのだが、数時間はかかる。
しかしそれなりに楽しめたし、興味深いフレーズや単語にも巡りあえたのは良かった。

AlbやTunicのような服装に関する単語に出会い、啓蒙された気になった。
今まで如何に我が眼で見てきた物を表現せずにすましてきたことか!

Bean Counter, Top Banana, Adam’s Appleなど良く使われる用語なのかもしれないが、
こういう知っている単語が組み合わさった俗語の意味を知ることは新鮮だった。

今回学んだことをまとめると:
毎日クロスワードで英語語彙増強を図るのは時間的に厳しいので別の方法を模索した方がよいが、たまにはクロスワードで普段触れるものとは異なる英語を体感するのも悪くはなかろう。

Monday, August 27, 2012

あれは靴といいます。

見たことはあるけど、その名称がわからないものが多々ある。
何故わからないのかというと、それについて頭を使うことが殆どないからだ。

今日の読み物の中にshoeという単語が出てきたのだが、”靴”では文脈に沿わない。
他にどんな意味があるのか?英和辞書で調べてみたが答えらしきものはみつからない。
文脈からカジノ関連の専門用語かもしれないと思い、ブラックジャック、カジノなどと絡めてグーグル検索して答えを見つけた。イメージ検索するとよくわかる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Shoe_(cards)


うん、これは見たことはある。今月に実物をみかけたばかりだ。
しかし名称は知らなかった。そもそも、名前があるとは露ほどにも考えなんだ。

恐るべきは”こそあど言葉”である。
これがあれば名前を知らずとも何とかなってしまう。
便利だけど”こそあど言葉”に頼りすぎるのは、色々な意味でよくないと私は思う。
観察したものを頭の中で言語化するトレーニングを毎日少しずつやってみようかなぁ。
身近な物で語彙を増やすことで、表現力と即興で話題をつくる能力が養われると思う。


どうでもよいことだが、あれは日本語でも(ディーリング)シューと呼ぶらしい。






Saturday, August 25, 2012

掘り下げる

色々と頭に浮かぶ考え事も、その場限りの思索に終わるから私の思想は内容が薄いと思う。
何かテーマを決めてもう少し時間をかけて掘り下げる練習をしてみようと思う。
仕事や課題が与えられていれば、そのことについて長く考えているとは思うのだが、それ以外のこととなると適当に済ますのが私の癖なので矯正するのも時間を要するであろう。

Friday, August 24, 2012

冒険心が希薄なのが課題です

私は何についても漠然と考えてそこでストップしているようだ。
具体的なことは一切考えていない。このブログを読み返すとそう感じる。
きっと頭が考えることを苦痛に感じていて放棄してしまっているのだろう。
具体的に物事を考える習慣をつけるにはどうしたらよいのかな?
と、ここで私の思索はストップするのだね。
これについて毎日思案するわけではないから非生産的なんだろうな。

もっと積極的に行動する。また行動範囲を広める。冒険する。
今の私に必要なのは間違いなく”行動、冒険”なんだ。心がそう訴えているのだ。
じっくりとですが、わたしの重い腰を治療します。




Thursday, August 23, 2012

姿勢

車の運転の話をしましょう。
最近、座席の調節次第で運転のしやすさが決まることに気づいた。
以前までは肘が90度近く曲がるくらいハンドルから近いところで運転していました。
座席位置についてはマークをつけているわけではないので毎回何となく体が憶えている運転姿勢にあうところに座席を移動させていましたが、比較的ハンドルに近いところで運転していました。その方がブレーキペダルを早く強く踏めるから安心感があったのでしょう。
あるとき肘がもう少し伸ばせるようハンドルから座席を離して運転してみたところ、よりリラックスして運転できました。運転しても以前より疲労を感じなくなった。最大の変化は車を曲げるとき、ハンドル操作が安定してスムーズにできるようになったことです。最初はペダル類が普段より離れたので足での操作にやや不安がありましたが、まぁしっかり届くのですぐに不安は払拭されました。
以降肘をリラックスして伸ばせる位置に座席を持ってくるようになりました。

何年間も正しくない座席調整で運転していたのか、それとも時とともに座席調整が乱れてきたのかはわかりませんが、なんとも情けない発見です。
これと通じる発見はピアノの練習中に感じました。運指は座る位置、および弾き手の姿勢にとても影響されることを体で学習しつつある今日この頃です。
今まで軽んじてきましたが、漸く”姿勢”の大切さに気づいてきました。

Tuesday, August 21, 2012

情けは人の為ならず

利他的行動、

人間の利他的行動について考えてみたい。
私はそのようなものは存在しないと思っている。
一見利他的と見える行動も、行動している本人からみると利己的であるのだ。
私の場合、周りの人の為に行動していることもあるが全て意識的にである。

例:
某観光名所にて、赤の他人に頼まれもしないのにその人達の写真を(彼らのカメラで)撮ってあげましょうか?と聞いてみることがある。この行動は彼らの為?いやいや自分の為でしょう。そう話しかけることで気持ち良くなることを無意識(意識?)的に予想しているからだと思う。正直相手からの見返りは考えていない(と思う)。まぁ、挨拶して気持ちよくなる感じ、それを期待しての行動だと私は考えている。だからであろう、無愛想そうな観光客だったらわざわざ話しかけないと思う。話しかけても無視されて自分が落胆することが予想されるからだ。
逆からみれば、無愛想な振る舞いをしていたら、周りの人からサポートを貰いにくく、明るく振舞っていれば周りのサポートを得やすいわけで、人間が明るく振舞おうとするのはやはり利己的な理由からであるとも考えられる。意識的にせよ、無意識的にせよね。


もっとも、他人の内心は私には見えないので私自身から他者の心情を帰納的に推察するしか手段がない。
しかし”情けは人のためならず”という諺もあるように、全ての行動が利己的であることは真理ではなかろうか?そう考えると渡る世間は鬼ばかりで、世知辛く感じてしまうから、あえて利他的行動を容認するのが大人の回答であろうか。

Tuesday, August 7, 2012

無限の道程

道を究めるとは、

1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + 1/128 + ... = 2?

のように果てしない過程を歩んでゆくことだと思う。
いくら励んでもゴールは無い。どこまでいっても、進化の可能性が潜在している。
上式のように上限の値がわかるわけではないところが面白いのだ。

わかりやすい例で、100m走。今のところUsain Bolt選手の100m9.58秒が世界記録だそうです。
これは人類にとっての上限値なのでしょうか?
これを破る人は今後現れないのでしょうか?
今のところはベストの値でも記録を塗り替えられる可能性はあります。人類の上限は9秒台なのか気になります。


ところで上の式も100m走のタイムも一次元的なものですが、実際に道をイメージするときは多次元(2,3次元的に)するべきでしょう。例えば演奏家達の成果を一次元的に並べて比較するのは馬鹿げています。それぞれ特徴が異なったり、同じジャンルの演奏家の間でも模索しているものが異なるでしょう。料理に使うボウルをイメージします。だれでも出発点は底の一点です。ゴールは縁です(蟻地獄の中の蟻にとっては正に生死を賭したゴール)。縁のどの点も終着地です。色々な道程が考えられます。また、上らずに横に進んだり、斜めに下ったりしても一次元の時のように来た途を戻るわけではありません。これらのルートも進化の過程とポジティブに捉えられる。結局1次元のときと同じように永遠に縁には到達できないのですが(縁に近づくにつれて傾斜が厳しくなりますからね。)、直線過程を進むより楽しいはず。直線では進むのを止めたら、立ち止まるか後戻りするしかないのですから。ところで実際の人生は何次元位なのでしょうかね?

Monday, August 6, 2012

問いを発すること

今日は車の後部座席で暇していた時、外の景色を眺めているとタンクローリーの後姿が眼に留まった。




”何で楕円形なんだろう?”
と不思議に思った。
帰宅後にWikiで調べてみたが、円形の方が四角形より強度があることと、高さ制限があれば真円形より横に伸ばした楕円形の方が運べる液体の体積を確保できること、という風に漠然とだが理解した。(この記事に関しては英語版より日本語版のほうが詳しく書かれてあり意外だった。)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC

しかし要点はタンクローリーの形状云々ではなく、”なんで楕円?”という問いを発した点にある。
学校では問いは当然の如く与えられていて、その答えを得る方法を学ぶ。
しかし、問いを発することも学力の一部である。
我ながら、よくぞこの疑問を抱いた、と感心した。今までにタンクローリーを何度も見ている私ではあるが、今日のような観察は初めてだろう。
では何故今日に限って私はこの問いを発することができたのか?自分でもよくわからないが、車の後部座席で退屈していたから、また特に考え事のネタが無かったから、ではないかなぁと思う。それから適度にリラックスした状態だったからとも思う。
これが真実ならば、意図的に頭脳に暇を与えてやるのも立派なテクニックといえるだろう。
週7日、168時間仕事に没頭してはいけない、ということですね。



Saturday, August 4, 2012

逆算

人によって人生の目的は異なるかもしれません。私の場合、その目的はとりあえず生きることそのものを満喫し、自分の一生の生き様を世界最高の美術品と思える死を迎えることです。
具体的にどうやって?というと自分でもまだ解らないです。今は闇雲に生きながらえている状態で今死んだら無念でしょう。とりあえずは日々を充実させることくらいでしょうか。

数学では答えから逆算して問題を解く手段があります。人生は逆算で考えると上手くような気がします。もし理想像や目標があるとします。そこから逆算、どうやったら理想に近づけるか、その対策を講じます。ゴールがはっきりしている分、対策は立てやすいと思います。
逆に目標や理想像が見えない段階で答えを探すのは難しそうです。闇雲に迷路をさまよいながら、問題の答えを探す。これはこれで楽しいかもしれませんが、私にはその試練は厳しすぎる気がします。というわけで、とりあえずは理想像を探しながら生活を続け、見つけたら逆算です。


Friday, August 3, 2012

学力の数値化

学力は一本の数直線で表せないとは考えられてはいるものの、結局どこもかしこも試験結果などで数値化して学生の学力を測っているのが実状でしょう。この数字の為に一体どれほどの人が苦しんでいるのか、それこそ測りしれない。
このケースでは数値化は不可能もしくは不正確かもしれないが、数値化しない場合は大人数を比較することなど到底かなわない。比較が必要ない世界なら学力の数値化は不要になるかもしれないが、近い将来にはそのような世界にはならんと思う。学力の測り方を改善するか、異なる統計値を試すなどして学力の判定の精度(制度)を改革は有意義であろうか?
コンピュータの性能が著しく向上した現在、ビジネスやスポーツの統計だけでなく、学力の測り方も工夫してしかるべきと私は考える。私は野球が好きだが、一人の野球選手に試合数、打数、安打数、本塁打数、打率、出塁率、長打率、など打撃だけでも沢山の指標が存在する。学力もマルチに指標があれば、学生の多面性に気づけるようになるかもしれない。


Thursday, August 2, 2012

生き甲斐?

人間以外の生物は”生き甲斐”という概念を持ち合わせているのだろうか?
まぁ、持っていないだろう。
思うに”生き甲斐”について悩むのは半端に知恵を身につけた人間だけだろう。
知恵が全くなければそういう抽象的なものに思い煩うことはあるまい。
己の道が見えている人や自由の全くない人ならば、”生き甲斐”なぞ考える必要がないと思う。
自由が私のような凡人を悩ませるのだ。

平和な世の中にあって"生きること”そのものの素晴らしさを認識するのは難しい。
だから”生き甲斐”という曖昧なものにすがるのだろう。
私のような凡人にとって自由という大海で遊泳するのは至難かもしれない。
おぼれかけながら何時までも”生き甲斐”という舟を探すのか、
それとも只自力で人生を泳ぎきるのか?

私はその選択すらしていない。まぁ、どちらでもよいか、とも思う。


Wednesday, August 1, 2012

焦点をぼかしてみる

何も書くことが無い日が続くと、ブログの更新が億劫になってきます。
問題を解くことへの考察を止めたわけではないのですが、特に書くことがない日が多い。
まぁ、毎日研究しているわけではないから、一つのテーマでブログは無謀であったかな。
書きつづけるには、題材を限定しすぎないようにしてみようかな。
テーマをいくつか作る方が健康的だろう。
長く書き続ければ、自分が一番書きたい事もみえてくるかもしれない。
やってみるか。

Saturday, May 19, 2012

どうやって一瞬の決断をできるようになるのか?

私が身につけたいスキルのひとつは”一瞬の選択をする力”。
私はよく選択に迷いすぎる。決断がいつも遅い。
会話中、返す言葉に迷う。
運転中、車線変更や黄信号で進むかどうかの判断で一瞬の躊躇がある。
カードゲーム中、戦略変更や勝負を仕掛けるべきときに躊躇い好機を逸することが多い。
買い物中、欲しいものがあっても買おうかどうかの思案で今までに何百時間つぶしたことか・・・。

この決断力はどうやって鍛えるのだろうか。
バスケなどのスピーディなスポーツなんかいいのかなぁ。私はこれらを避けてきたから決断力がないのかもしれん。